アスモデウスは性欲の悪魔

 アスモデウスは性欲の悪魔として有名で、大天使ラファエルがアダムとイブと食事を共にするその創世記の冒頭の時代に、そのアスモデウスの計略の危険性をアダムとイブに警告していました。ラファエルはベネ・エロヒム(神の子供)とされ、神の子供を言う意味がベネ・エロヒム。その神の子供の長兄がラファエルだった訳です。

 決して誰かに勝ったから明日もデウスと言う事では全くないのです。

 トビトとトビアの親子に、アスモデウスが狙っているサラと言う女性が、結婚する度に、新婚初夜に旦那が殺されてしまうその女やもめの女性を救う為に、アスモデウスを撃退する方法で、魚の胆嚢、心臓、肝臓等の臓物を薫して、煙を出して、その臭いで撃退すると言う事を、トビトとトビアに伝えたラファエルは、癒し、薬の大天使としても知られ、魚の色々な部位の効能をその親子に伝授しています。

 それとラドエリエルと言う天使は、詩と夢想の天使とされ、セラフィムよりも高位とされます。神様とソフィア以外に、天使を生むことが出来る存在は、彼ラドエリエルだけであり、彼の口から出る言葉全てが、全て天使となるとされています。

 ミカエル=神に似ている存在として、ツタンク・アーメンの意味も、アメン神に似ている存在であり、下エジプト(ナイル川下流のアレクサンドリア)の象徴である蛇から、鷹へと変えた一神教への宗教転換をされた、アメンホテプ4世が、モーセスともされ、その宗教改革の失敗で、上エジプトのアマルナ(天の月)へ首都へ変えたファラオの息子が、ツタンカーメン王(少年王)であり、あのツタンカーメンの呪いでも知られるファラオの墓を見つけたカーナボン伯爵の支援を受けたカーター博士(考古学者)の関係者が、次々と悲劇の死を遂げたと言う事と、墓が暴かれる事で、過去の時代と現代が繋がるリンクと言う理論は、ノストラダムスの予言で、ある意味それは予言ではなく、計画的な調和予言として、墓が暴かれる時間の予想とは、ある意味それを弟子が引き継ぐ時に、その過去(墓に葬られた時間)と墓が暴かれた時間を繋げ、その未来(葬られた時代のその前ー生きている時間ともリンクする未来の事象を知る為の方法論ならば、その時間差のタイムラグと、放射線の半減期が、例えば、アダムが最初に現れたヘブライ暦元年が紀元前3760年で、放射線のガンマ線量が半減する期間が、5730年であり、紀元前3760年に5730年を足すと、西暦1970年になります。

 昭和45年と、アダムの数字が45(アルファベットのスペルを数字に変換するゲマトリア数秘術での計算)で、例えアナグラムとすてスペルを入れ換えてもその合計数字が一緒である事は、ゲマトリアとアナグラムが連動しているからでありますが、5730年後の世界で、一気にその時間軸が繋がる時に、アダムの数字の45とグウラーと言うギリシャ語の数字が45で、解放を意味する事で、その旧約の神が、アダムに、神(自分の父親としての神)と悪魔をどちらを信じるかの問題提起が、再燃したと言うことで、聖書で義務を伴う最初の戒律が、親孝行(父母を敬愛しなさい)である事が、新約聖書のパウロの言葉にもあります。

 アダムは、全ての存在に名前をつけましたが、そのアダムの口、喉(喉仏=アダムの林檎)で、神を呪ってしまった時に、アダムを通して被造物が神を呪うようになってしまったと考えた時に、原罪(悪口ー悪い言葉)を喉でその空気振動で与えてしまった(空気の神のエアは、山羊と魚の姿をしていますが)時、その自分の喉の原罪を祓う為に、よい存在(阿弥陀如来)の名前を唱える事で、その原罪の喉を祓う(アダムの林檎としての喉仏の罪を祓う宗教教義が、浄土宗、浄土真宗の念仏であるなら、決して念仏に意味が無い事ではないと思われます。

 浄土宗の徳川家康公の菩提寺の芝増上寺と、江戸上野の東叡山寛永寺が天台宗であり、西を尊崇する浄土宗(西方浄土の阿弥陀如来)と、東の東方浄

瑠璃世界の薬師如来と、江戸で西と東を分ける子午線(ローズライン)として、白い世界(朝の明けの明星のルシフェル)と、赤い夕焼けの西の世界で、宵の明星であるミカエル。

 イエズス会が東回り航路で、東を目指して、インド(ゴア)、東南アジア(フィリピン経由)で、日本の種子島、山口県(長州、周防)の大内氏、そして島津の薩摩と西日本へとキリスト教の伝導に関わるイエズス会(現在の法王ーフランチェスコ法王はイエズス会出身)で、西回り航路(新大陸のアメリカ大陸や、キューバ等の西インド諸島経由のフランチェスコ会絡みの、太平洋岸の陸奥の伊達政宗公が派遣した慶長遣欧使節のフランチェスコ会の。フライ・ルイス・ソテロ。羽と目が身体中にあるセラフィムの幻を見たアッシジのフランチェスコ。

 子午線がローズラインとして東と西に分ける時に、その南北の政権交代で、太陽が東から昇るか、西から昇るかのポールソシフトが、実際の地球の地軸の逆転なのか、それとも北にとって、南に敵対する時、相手が南であるのに北を向く訳がなく、常に北にとっての南へ向いている場合(敵を監視ー南を向く時に、自分にとっての左側から太陽が昇る事で、南北の逆転と、赤い薔薇と白い薔薇。赤いバージンロードのカトリックと、白いバージンロードのプロテスタント。

 イギリスとフランスの薔薇戦争と、イギリス王室での赤い薔薇と白い薔薇であるランカスター王家とヨーク王家の相克。

 エリザベス女王とブラッデイー・マリー(カクテル)の語源のメアリー女王の相克。

 スコットランド王家にダン族の血が流れると言う英猶同祖論。

 ダン族は、路傍の蛇(蝮)。馬の踵に噛みつき、乗り手を振り落とすとされます。神の救いを待ち望むとされるダン族と、その弟のナフタリ。

 ヤコブ(踵の意味)で、兄のエサウの踵を掴む事は、双子の難産の時に、安産で頭から兄が生まれる(逆子ー双子で足から先に出てしまうと、難産で

母子共に危険)、そのヤコブの長男のルベン(ルベン族)が、父ヤコブの床を汚したとされる記述で、ラケルの下女であるビルハと共に寝たとされる事で、ルベンはヤコブから疎まれましたが、ヤコブとビルハの子供とされるダンとナフタリの本当の父親が、ヤコブなのか、それともルベンなのか。

 日本の天皇家にも似たような原因で合戦が起きましたが、71代白河院と72代の堀河、74鳥羽院、75代の崇徳院で、崇徳院の父親が鳥羽院であるか、祖父の白河院であるかで、叔父御と崇徳院を呼ばれた鳥羽院。堀河院の弟であるかもしれない崇徳院につくか、それともその後白河院につくかの平治の乱と、その前の保元の乱(平 清盛公の父の忠盛公とその時の源氏長者の源 為義公ー斬首された場所が船岡山)で、その時平 清盛公と源 義朝公は味方同士であり、その後の平治の乱では、京都でおこなれた美人コンテストで一番の美人とされた常磐御前を妻にした源 義朝公(その息子が義経公で、鞍馬天狗に育てられた義経公と天狗=ユダヤ人なのか?と言う説)。その平治の乱の後、常磐御前は平 清盛公の妻の一人になってしまいましたが、その平 清盛公の大河ドラマで、武井 咲(えみ)さんが演じ、白河院と鳥羽院の相克の原因の白拍子の待賢門院璋子さんの役を檀 れいさんが演じられていました。 

 待賢門院様を慕っていたのが佐藤義清で、法名を西行法師とされますが、西に頭を向ける事で、骸骨(ご遺体の向き)で、その地球の自転とは反対にながれる環状電流で、過去の時代にその意識の回線が遡源(時間軸を遡る)する事で、死者の声を聞く事で、そのご遺体がいかにして亡くなったかの原因を突き止め、無縁仏の成仏をさせる事が、まさに死者を復活させたとの伝承に繋がったのかもしれません。

 西に頭を向ける浄土宗。徳川時代に朝鮮王朝との友好使節を受け入れていた江戸幕府と、鎌倉時代の元寇で、西に頭を向けていたら、アンゴルモア(モンゴリアン)の大王の意識が、その北条時宗公に降りてきた時に、その精神的な疾患(意識の同調での呪いとされる精神的な葛藤ー葛城と藤原)と、源 義経公=チンギス・ハーン説を唱えた東京大学の歴史学の泰斗。

 昭和陛下が尊敬しておられたのは、源 義経公であり、その昭和陛下を悩ませていた意識との同調が、もし源 義経公=チンギス・ハーン説で、日蓮上人の法華経・日蓮宗の尊崇する方向である東(天台宗も法華経が最高経典で、薬師信仰)の時代に、西に頭を向ける事の危険性を日蓮上人が北条時宗公に進言された事も一理あるとは思います。

 北条時宗公の時代に、景教徒アキバを斬首させた長崎頼綱公(北村一輝さんが配役)ー長崎が平の姓も名乗っており、その次男の飯沼助宗公を将軍にしようと画策したと言うかどで、関東大地震(関東大震災とは別)で、時宗公の息子の貞時公の時代に滅亡させられています。

 北条氏は伊勢平氏の流れで、平 清盛公、織田信長公も伊勢平氏であり、伊勢平氏の祖先が、平 貞盛公と国香殿で、その親子と争ったのが平 将門公。母親の出身地である相馬地方で幼少期をすごし、相馬小次郎の名前を受け継いでいますが、唯一承平・天慶の乱後に、土浦の桜川近辺の信太郡(そこを本拠としていたのが、鳥羽院の妻の一人で、松雪泰子さんが演じられていた女性と繋がりのある場所で、土岐源氏の荘園だった場所です。

 信太郡と信太の森の狐伝説で、信太小太郎=平 将国公が、安部晴明公と同一視する伝承ももとから存在し、茨城県明野(現在の筑西市)にその安部晴明記念館も存在します。

 安部晴明公を雇っていたのが望月の藤原道長公で、その兄の道隆公の娘が中宮定子(さだことも読みますが、陰陽道では自分の名前を敵に知られると呪われるとの事から、別の発音(音読みと訓読みー日本語風の読み方)が、中国風の読み方(万葉仮名での当て字ー暴走族の方が昔使っていた当て字が、万葉仮名でも同じ)で、さだこではなく「ていし」だったり、藤原道長公の娘の中宮彰子(しょうしとあきこ)で、定子側の清少納言殿と、彰子側の紫式部。

 水星のクレーターの名前に、紫式部だだったり、清少納言の名前がつけられており、水星の公転周期が88日。米の八十八。夏も近づく八十八夜は、夏至の88日前。

 洗礼のヨハネの生誕日が夏至の日であり、一年を二つに分ける期日の夏至と冬至でのギリシャの双子座の期日の中の夏至と、冬至が山羊座の中の冬至。

 また秋分の日に生まれた可能性のあるナザレのイエスが、アドニス=タンムズ神話で、一年の半分をペルセフォネと過ごし、もう半分をアフロデイーテと過ごすとされ、その季節の復活神話との関係で、一年をもう一つの直径で二分するグランドクロスの4分割で、春分の日=過ぎ越しの祭りで捧げられた(秋のお彼岸で目覚めたナザレのイエスの一族の祖先を、春のお悲彼岸で戻した。

 聖ミカエルの祝日が、、9月29日(太陰暦)とされ、イエス・キリストの本当の誕生日が、太陰暦で9月29日が秋分の日であった年と、その年の過ぎ越しの祭りの春分の日が何日であったかを特定すれば、間違いなくナザレのイエスの正確な誕生日が確定し、論争の終結にも繋がると思います。

 12月25日でも、ロシア正教、ギリシャ正教の1月7日でもなく、やはり秋口である秋分の日に生まれ、その反対の春分の日で涅槃に入り、その時代を特定する事で、聖書が物語、神話ではなく、正確な記録書である事の証明に繋がるでしょう。

 イスカリオテのユダも、裏切り者ではなく、過ぎ越しの祭りのひとつであるメヒラト・ハメットと言う、生命のパンを一度ラビにお金で売り渡し、そのパンをラビが外国人に売り、それをラビがお金で買い戻すと言う過ぎ越しの祭りの一種(イスラエルのエフライム地方-アリマタヤのヨセフのアリマタヤも、エフライム族の土地の名前―での祭りの形態)があり、決してキリスト教徒が裏切り者としているイスカリオテのユダは、裏切り者ではなかったと言う事と、イスカリオテのユダの名前と同じ発音のユダ族ーユダヤ人を排斥したドイツのヒトラーが、ユダヤ人を弾圧した理由そのものを消す事で、ユダヤにとって、キリストの敵との汚名が灌がれると思います。

 アリマタヤの土地はエフライム族の土地で、彼と共にいたナザレのイエスの父親が、ユダ族のヨセフではなく、アリマタヤのヨセフだと思われた時に、エルサレム入場後の様子が一変した事で、戸籍(生命の書)を調べる権力を持っていたポンテオ・ピラトが、イエスがユダヤ王家の出身であると偽っていたとの罪を拭えた訳で、ポンテオ・ピラトがイエスの無実を知っていて、罪状板への罪状が、ユダヤの王ナザレのイエスの意味の「INRI」ーイナリ=インリ。稲荷の事とされますが、白い狐とイエスの伝説。虎の威を借る狐が、寅の時刻(午前4時の明けの明星)ー夜明け前に起きるー太陽よりも先に起きている事で、その土地の世界の一日の上空の戦いのトップに立つ事と、悪い存在(泥棒ー丑寅の時間ー午前2時から4時)との霊的な戦いを

山で修行する行者(僧侶)が戦う比叡山。

 生命の樹は、芽が出た時間が上昇(樹の成長)で、その樹の周辺が木下、木本で、その過去の時間が上昇し、現在が大地である事で、時間軸の逆転で、予言をする過去へ(自分が大地にいる事で、過去へリンクする事と、常に高さを維持できる等高線で高い場所にある山。

 塔。マグダラ(高い塔)女性上位のセックスの体位で騎乗位の場合、そのセクシャル的な回線が上昇し、周囲に露呈する可能性もあります。

 男性が上で、女性が下の性行為。

 男性が下になると、そのオーガズムと性行為の姿勢によって悪影響となる可能性。

 立ったままのセックスや、体を起こしたままの自慰行為で、頭上への性欲の上昇は、満月のような状態を引き起こし、月齢(月の動き)と個体のバイオリズムを狂わせる恐れもあります。

 動物の体位をとる男性の同性愛者の場合も、その後ろからの体位とオーガズム時に上昇する性的エネルギーが向かう場所と停滞する場所が悪影響を起こす可能性。

 キリスト教で許されている性行為は正常位だけ。

 フェラチオ等の行為で、女性の喉に喉頭癌などの影響(精子は減数分裂で増殖。癌細胞も減数分裂で増殖)があるかもしれないので、皆さんお気をつけください。

 男性の場合、アダルトDVDの見過ぎで、アダルト女優さんがする行為を、一般の女性に要求する事で嫌われる場合もあるので、男性諸氏もお気を付けください!

篁石碁というペンネームと本名 飯沼孝行と言う人間を上から下から自分で語る為のblog

SF小説とHなファンタジー小説まで書く正体不明なフリーランスのオジサン作家を自分で説明するブログ。  自慢できるものと隠したいものと、自分が認める恥さえも小説にすれば美学になるのだろうかと欠点美化する時、若者のフリした詩的作風も、結局自分の虚像。言葉と写真で知る存在と、自分本人知る人と、正体不明な自分を言葉で定義出来る存在は同居する親だけ。