ヨム・キプール

『ヨム・キプール』

平成26年6月29日訂正版

飯沼孝行

ペンネーム 篁 涙(現在 篁 石碁)


 ゴッドはただ一度だけイエスが身代りとなって死に引き渡される事をお許しになりました。ただし一度だけです。

 全ての咎と会うとされたインマヌエルの預言。

神の子イサクがサタンの誘惑に勝つ事で右と左に分ける。そして神の側を作ります。そしてより上の周波数を作る事で戦いに勝つ。

ゼウスは山羊のミルクで育っています。つまりサタンと言われる山羊と同調しやすいのです。そしてユダヤではヨム・キプールという儀式があり、山羊にユダヤの罪の汚れを着せて荒れ野に放つ儀式を行っていました。贖いの教義が大事な事はわかります。しかしイエス・キリストのお命がお救い出来ればと思います。

 それは山羊と同調しやすいイエス・キリストに、ユダヤの罪の汚れが移り、イエス・キリストは無原罪のまま十字架刑に処された。ですからイエス・キリストを救うには、ゼウスがまず守護霊から外れるべきです(イエスとゼウスをグノーシスで同一視しない)。居るだけで逆に全てと同調して呼び込まれます。その一族の家族の守護霊が本来はつくべきなのです。

 山羊の性欲を抜く事。そして呪われていない無原罪の方が守護霊として付くべきなのです。罪を犯した存在は守護霊になれない。

 ユダヤの皆さんが、ヨム・キプールの儀式を、小石に罪の汚れを移すタシュレックや、今はその動物を山羊から鶏に変えている事で、ユダヤとローマとのこれからの全面戦争は避けられるだろうと思います。

 それとキリスト教の教義として、正直に告白する。懺悔の教義を実践する事でイエス・キリストを救えます。ヨム・キプールで、生贄の山羊と、山羊のミルクで育ったゼウス様が守護神として付くローマ皇帝へ、ユダヤの呪いが掛けられていたのです。イエス・キリストをお救いして差し上げたいのならば、自分の罪は正直に告白する。

 ヨム・キプールを山羊では無くして鶏に変える事。タシュレック(小石を投げる)や、懺悔の教義にする事で、ユダヤの独立は保てます。

 ローマはユダヤを侵略する事もなく、平和的な国交を保てるでしょう。ユダヤは国を失う事はありません。その為の、サドカイ人やパリサイ人への宗教改革だったと思われます。

 イエス・キリストを信じていれば、きっとユダヤは国を失う事なく、悲劇の歴史を歩む事もなかったと思われると、今更ながらに口惜しい。

 君が代。身代りになったイエス・キリスト。イサクである金星。アブラハムのラハムをシュメール語で解き明かすと、金星という意味があります。

 アブラムのラームはシュメール語では火星。火星の父親を意味します。そしてアブラハムのラハムもシュメール語で金星。金星の父親のアブラハム。戦争の説法から、愛の説法に変わる。

 ゼウスの娘、金星の処女神でもあるパラス・アテネがいます。そしてアブラムの息子イシュマエル。イスラム。ISRAM。反対からだと、MARS(I)。火星。

 太陽で悪徳を浄化するのに、様々な誘惑をするサタンに対抗して、その誘惑に勝つ事で、法律を決める。つまり、イサクが守った戒律が法律となり、それを守れば天使の側となるのでしょう。そして、その法律を破れば裁かれるのです。

ですから、全ての人を許そうとして神の子を誘惑し、全ての罪を犯させようとする存在こそサタンなのです。

 ですから、サタンはサタンなりに考えての事なのでしょうが、全ての罪を犯させようとする事はアナーキーとしての無法地帯となってしまう事に違い無いのです。それこそ、何でもまかり通る地獄のようなものです。

 つまり、無言のユダ族の太陽と、説法する太陽としてのベニヤミンこそ天使一族であり、太陽神に悪い存在が同調して憑依していると、その悪い情報が抜け出してしまうので、太陽神と誰かの霊の合体の時、その霊の情報が太陽から、太陽系全部に放送されてしまいます。ですから太陽神には憑依しない。取り憑いている存在の映像や心の声がばれるだけなのです。

 人が注目している人間に電子的情報伝送(携帯)で繋がっている(ハッキング)時、悪い存在の奸計も表沙汰にされる。

 そもそも贖いの儀式とはサタンのヨブに対する訴えに対しての答えだったと言う説。神様の為に死をも厭わずに信仰心を保てるか。死に至るまで神様を信じたイエス・キリストが、模範としての答えを出した。ヨム・キプール。贖いの儀式としての解釈。

 神の子を誘惑するサタン。

 イエスが破った戒律が許されたキリスト教。

 全ての罪人に会うとされたインマヌエル。

 世の中で最もも醜い容姿をしているとイザヤ書52章に記述がある存在に、恰好が良いと思っている人間が、自分とインマヌエルを同一視する訳がない事を見越し、醜悪な容姿をしていると預言されたインマヌエル。

 イザヤ書52章の記述。チェックしてみて下さい。

篁石碁というペンネームと本名 飯沼孝行と言う人間を上から下から自分で語る為のblog

SF小説とHなファンタジー小説まで書く正体不明なフリーランスのオジサン作家を自分で説明するブログ。  自慢できるものと隠したいものと、自分が認める恥さえも小説にすれば美学になるのだろうかと欠点美化する時、若者のフリした詩的作風も、結局自分の虚像。言葉と写真で知る存在と、自分本人知る人と、正体不明な自分を言葉で定義出来る存在は同居する親だけ。